鶴翁山 高天神

鶴翁山 高天神

荒波 鶴翁山

そのむかし、この付近まで水鳥が集るほどの入江があり、山上には社、麓には土方の舘があったといいます。城飼郡・笠原荘の中心でもありました。

鶴翁山 高天神

御前崎の神領、白羽の官牧、花山院御領の桜が池、遠江安国寺の金剛山貞永寺、大渕の晴明塚、遠江熊野三山(小笠・高松・横須賀三熊野)などが、周辺に散在することからも高天神がかつての朝廷や幕府にとって大変重要な拠点だったことが覗えます。


荒波 高天神社

祭神  高皇産霊神 天菩毘命 菅原道真公
優雅な姿をした鶴翁山にある高天神社は、旧城飼郡(きこう・紀甲評)土方にあり、式内「比奈多乃神社」の論社のひとつともいわれます。

鶴翁山 高天神

土(ひぢ)とは、水分の多い土=泥のことです。方(かた)とは、おそらくは、池、淵、潟(ラグーン)の意味だろうと思われます。
古事記によれば、水戸神の孫・櫛八玉神が膳夫(料理人)となり、鵜に変身して海底の埴(粘土)をとり「天の八十平瓫」を作り海藻を刈って燧白・燧杵を作り、火を鑽り出して、大国主命に対して、火を使って調理した魚を献る詞章を述べたとあります。
どうやら、高天神とは、本来は水戸にいた神官が、天神(天ツ神)を祀るための斎場だったようです。

鶴翁山 高天神 鶴翁山 高天神

高天原より天神の使いとして飛来した鶴は、嘴に咥えていた稲穂を地上に落とし、中つ国に稲をもたらした霊鳥とされ、また、湿地で採餌する姿が、人が田植えをする所作に似ていたので田鶴(たづ)ともいわます。

鶴翁山 高天神 鶴翁山 高天神

荒波 尾白稲荷大神 
由来  今から、千六百年余り前、この高天神に地の神、護国長寿の神として降臨。その後、当山での修験者「藤原仙翁」を下僕として附近一帯を守ってこられました。
戦乱の世、自己の姿(尻尾の白い狐)を見せたがために、賞金を付けてのお触れが出され、ある夜、この井戸を飛び越えようとした所を、三の丸の大将小笠原與左衛門(強弓の師)に射止められました。與左衛門は、褒賞を得、性を「尾白」と改めてきたものの、以後、高天神は魔の山として恐れられるようになりました・・・・。
神通力を奪われ、四百有余年間、このたび、高天神社の祭神、菅原道真公、また、藤原仙翁、大河内政局、四坊僧のお力添えを得て、目出たく、此所に尾白稲荷大神として醒誕、関係各位の同意により祭祀されることになりました。
大変な神通力がある故、商売繁盛、縁談、難病諸病は勿論のこと、真心を以っての合掌には後霊験あらたかです。

参拝は、「結ぶ、結ぶ、結ぶ」と三度 口の中で唱え、願い事をして御礼拝ください。
昭和六十二年 十二月十六日

鶴翁山 高天神

荒波 元天神社  式内論社
式内「比奈多乃神社」の祭神は、関東で盛んな「酉の市」で有名な「武夷鳥命」(天菩毘命の御子神)のことらしく、出雲国造・无邪志国造・上菟上国造・下菟上国造・伊自牟国造・遠淡江国造・津島県直など祖神にあたり、土師連・出雲臣・野見宿禰・菅原朝臣・大江朝臣はその子孫とされています。

鶴翁山 高天神 鶴翁山 高天神

土方氏の先祖は、応神天皇の子である大山守皇子の後裔「土方の君」され、城飼の郡司、在庁官人、神官などとして栄えた一族で、関ヶ原の後、一部の者が山内一豊に従い土佐国へ移住し、維新の元老のひとり土方久元(ひじかたひさもと)を輩出しています。
本丸には、ふもとの旧土方村の住民が兵隊として西南戦争・日清戦争等に出征した記念碑がいくつかあり、土方久元の揮毫による碑も残されています。


荒波 高天神城 

所在地  掛川市上土方峰向
俗称・別名 鶴翁山、土方城、鶴舞城

小規模ながら、山城として堅固さを誇り、戦国時代末期には武田信玄・勝頼と徳川家康が激しい争奪戦を繰り広げた。優美な山の形から鶴舞城とも呼ばれていました。

また、遠州灘に面した菊川の河口には浜野浦という港があり、中世には水軍の拠点として知られていました。

鶴翁山 高天神

城内の案内板によると913年(延喜12年)に鶴翁山の山頂に宮柱が建てられたところから高天神城の歴史が始まっているようです。
平安時代末期の1180年(治承4年)源頼朝挙兵に伴い渭伊隼人直孝が山砦を築き、1191年(建久2年)土方次郎義政が城砦を築いています。

鶴翁山 高天神

長篠・設楽原の戦いで勝利した家康は1580年(天正8年)に高天神城を攻めます。
守将・岡部真幸は、勝頼の援軍がないまま10ヶ月に亘る籠城戦を戦いますが、飢餓状態となった籠城軍は、1581年(天正9年)3月22日、城外に総攻撃を仕掛け、全滅してしまいます。

鶴翁山 高天神 鶴翁山 高天神
三日月井戸                        大河内政局石牢
                  
鶴翁山 高天神 鶴翁山 高天神
小笠原長忠と奥方のパネル              追手門跡

落城後、高天神城は廃城となり、その後も城郭として整備されることはなく、山頂に残された高天神社とともに、その伝承のみが長らく人づてに語られてきたと伝わります。

鶴翁山 高天神

笠原荘は馬を飼育し供給する「笠原牧(まき)」に起源を持つ荘園で、はじめの頃は左大臣 源俊房(としふさ)家が家領としていた後、関白藤原頼道や平重盛が荘園の権利をもち、鎌倉時代には賀茂斎院領へと伝えられ、常に中央貴族や社寺との関わりが見られる荘園でした。笠原荘の鎮守は熊野三山(高松・小笠・三熊野)が担い、浅羽氏が荘官として仕えていたようです。









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